昔、実家で「らんまる」という犬を飼っていた。
庭で放し飼いだったので、家の前を通る人がいるとその人が見えなくなるまで追いかけまわし、めっちゃ吠えまくる。夕方になると音楽が流れるのだが、それに合わせて狼みたいな遠吠えもする。
中学生の時、家に遊びに来た友達に後ろから襲い掛かり、Gパンを噛み千切ったこともある。
たまに隙を見て脱走する。近所の犬を挑発しながら自分で散歩をしているので、どこら辺にいるかすぐわかる。さすが帰巣本能と言うべきか、しばらくすると気まずそうな顔をして帰ってくる。
番犬としては申し分なく、友達からは”狂犬”と呼ばれていた。
ただ、雷にはめっぽう弱く、気弱な声を出し「家の中に入れてくれ」と泣き叫ぶ。
自分が家を出る時は姿が見えなくなるまで見届け、帰ってくると”かまって!かまって!”と尻尾をブンブン振りながら頭から突っ込んでくる。
可愛い。。。
「ミミ」という黒猫も飼っていた。
元々は野良猫で、幼稚園の帰りに弟が拾ってきて、そのまま家に住みついた。
野良猫だったくせに人懐っこくて、どこか落ち着いており、賢い猫だった。
猫嫌いの父親には近寄らず、夜になると、いつの間にか自分のベッドで寝ている。
冬になれば布団の中に入ってきて、毛布に包まって一緒に寝る。
可愛い。。。でも息は臭い。
考えてみれば、”らんまる”も”ミミ”も
ご飯を作ってくれるわけでもない。
家の掃除をしてくれるわけでもない。
お金を稼いでくるわけでもない。
「今日も仕事お疲れさま♬」なんて、労ってくれるわけでもない。
むしろ逆である。
ご飯を用意する。
トイレを掃除する。
散歩に連れて行き、ウンコをすれば拾う。
病気になれば、病院へ連れて行く。
友達が嚙まれたら謝る。
圧倒的にこちらの持ち出しである(笑)
損得だけで考えたら、とても割に合わない。
それなのに可愛い。
なぜなのだろう。
それは「何かをしてくれるから好き」ではないからだ。
何もしなくてもいい。そこにいるだけでいい。存在そのものが愛おしい。
こんな愛し方を勝手に『ペット理論』と名付けている。
さて、これを人に当てはめてみよう。
例えば「恋人をペットのように愛すればいい♬」
こんな表現すると「人間をペット扱いするとは何事だ!」と怒られそうである。
もちろん、そういう意味ではない。
首輪をつけろという話でもない。
自分が言いたいのは、相手が『何をしてくれるか』ではなく、『そこにいてくれること』そのものに価値を感じられないか。
ということである。
連絡が来ただけで嬉しい。一緒に過ごすだけで楽しい。
特別なことなんて必要なかった。
ところが、付き合いが長くなると、それが「日常」になる。
すると不思議なことに、無意識に少しずつ相手への査定が始まる。
「自分はこれだけやっているのにな」
「相手はこれをしてくれないな」
「これくらいやってくれるだろうな」
いつの間にか、相手がしてくれたことが”当たり前”となり、してくれなかったことを数えるようになる。
①現代は相手を「条件」で見る機会が増えている。
「年収は?」
「仕事は?」
「価値観は?」
「家事はどれくらいやってくれる?」
「自分をどれくらい優先してくれる?」
「この人と一緒にいると、自分にどんなメリットがあるのか?」
もちろん、パートナーを選ぶうえで条件を考えることは悪いことではない。
一緒に生活するのだから、価値観もお金も仕事も大事である。
でも、相手を見る基準が「自分に何を与えてくれる人なのか?」ばかりになってしまったらどうなのだろう。
いつの日か「条件が満たされないのでサヨウナラ」もあり得るし、その逆も然りである。
仮にペットだったら・・・
年収0円。仕事は番犬。価値観は一生わからん。家事なんてやらねー。
メリットは、、、癒される。
②厄介な存在SNS
昔なら知ることもなかった他人の生活が、今はいくらでも目に入ってくる。
誕生日に高級レストランへ連れて行ってもらった。
記念日にブランド品をプレゼントしてもらった。
家族で海外旅行へ行った。
夫がこんなことをしてくれた。
妻があんなことをしてくれた。
そんな「誰かの幸せ」が毎日のように流れてくる。
すると「友達はもっと大事にされている」「あそこの旦那はこんなことまでしている」「それに比べてウチは……」と、いつの間にかSNSの中にいる誰かのパートナーと、目の前にいる相手を比較し始める。
SNSに映っているのは、その人たちの生活のほんの一部分である。
そんな切り取られた「他人の100点」と、毎日一緒に生活している「自分の相手」を比べたら、そりゃ粗も見えてくる。
仮にペットだったら・・・
連れて行ってもらうことより、連れて行くことしかない。
だけど、SNSでどれだけ可愛い犬や猫を見ても、結局は自分の家のペットが一番可愛い。
らんまるなんて、どう考えても優等生ではない。
ミミなんて、黒猫は不吉なんて迷信もある。
それでも愛おしいのである。
③心の距離感
一緒にいる時間が長くなればなるほど、嫌なところも見えてくる。
その嫌な部分に焦点を置いた時のブーストは凄まじい。
「アレが気に喰わない」「ちょっとした言動でもイラっとする」
エスカレートすると
「間違った感覚であることを指摘し、直させたい」
「口論になったら言い負かせてやりたい」
このように攻撃的な言動をとる。
親しい相手ほど、つい感情をぶつけてしまうことはないだろうか?
心の距離が近い相手には、自分の本音や感情を隠さずに出しやすいからである。
「この人ならわかってくれる」
「これくらいなら許してくれる」
「多少傷つけても関係は壊れないだろう」
そんな甘えや安心感が、時として感情のブレーキを緩めてしまう。
不思議なことに、外では他人に気を遣い、丁寧に接することができるのに、一番大切にしたいはずの相手には遠慮がなくなる。
他人には見せない優しさがある一方で、他人には決して見せない攻撃性を、身近な人に向けてしまうこともある。考えてみればおかしな話である。
一番大切にしたい相手が、一番雑に扱っていい相手になってしまっては本末転倒である。
心の距離が近いことと、相手を雑に扱っていいことは別なのだ。
仮にペットだったら・・・
そもそも言葉が通じない(笑)
理解してもらうことを前提にしていないのに、愛情は成立している。
言葉が通じる人間同士の方が、なぜか分かり合えなくなることがある。
④『もっと』
もっと優しくしてほしい。
もっと話を聞いてほしい。
もっと家事をしてほしい。
もっと稼いでほしい。
もっと感謝してほしい。
もっと評価してほしい。
もっと自分を大切にしてほしい。
この「もっと」は厄介で、追い求めれば上限がない。
一つ満たされれば次の不足が見え、探し始めればいくらでも見つかる。
①~④が絡み合うと、なかなか厄介である。
条件で相手を評価し、他人と比較し、嫌なところが目につき、さらに「もっと」を求める。
求められた相手も疲れて、関係が悪くなる。
すると、ますます相手の嫌なところが目につく。
まさに人間関係のデフレスパイラルである。
これらの問題は『相手が自分の期待通りに行動するのか』が愛情の査定になってしまうことだと思う。
期待通りにしてくれれば「愛されている」
期待通りでなければ「愛されていない」
そんな判定を毎回繰り返していたら、疲弊するしかない。
どうしても損得で物事を考えるようになってしまうのも理解できる。
ただ、少しだけ考え方の視点を変えてみようじゃないか?ということです。
これは恋愛に限った話ではなく
家族でも、親戚でも、友達でも、職場でも、当てはまるケースがある。
仕事なら尚更そうである。
これだけ働けば、これだけ給料をもらう。
商品を渡せば代金をもらう。
サービスを提供すれば対価を受け取る。
Give&Takeである。
それ自体は悪いことではない。むしろ社会はそれで成り立っている。
でも、どんな環境下であれ、人と人との関係まで全部Give&Takeにする必要があるのだろうか。
「自分がこれだけしたんだから、あなたもこれくらいしてよ」となった瞬間、取引になる。
職業柄、帳簿をつけることも見ることも嫌いではない。
でも、その貸し借りをずっと帳簿につけていたらどうなるのだろう。
愛情の貸借対照表まで作り始めたら、たぶんロクなことにならない(笑)
その帳簿は、帳簿をつけた人の100%の考えだから。
また貸し借り感覚でいると『不平等裁判』が発動する。
こちらもまた『ペット理論』同様、勝手に呼称しているモノである。
「たまにはお風呂掃除してよね」と言われたとする。
すると、言われた側の頭の中で勝手に裁判が始まる。
「はぁ? いつも洗濯はしてるだろ」
「はぁ? 仕事して稼いでるだろ」
「はぁ? 生活させてやってんだろ」
「はぁ? 社会的立場が偉いんだぞ」
はい。
これが、貸し借り帳尻合わせの『不平等裁判』の開廷である。
しかも、裁判長も検察官も自分。
証拠として提出されるのは、相手が「してくれなかったこと」ばかりと、自分が優位に「やっている」と思っていること。これでは相手が有罪になるに決まっている。
一つの要望に対して、自分がやってきたことを全部持ち出して反論し、その要望を握り潰そうとしているだけだから。
極論言ってしまえば、『風呂掃除をするの?しないの?』の議題だけなのである。
このテーマだけ、話し合えばいいのである。
「おはよう」「お疲れ様」と言ってくれる。
一緒にご飯を食べる。
くだらない話をする。
体調が悪ければ心配してくれる。
笑い合う。
こんな関係は、家庭でも学校でも会社でも、至るところで存在する。
だけど、最初から保証されていたわけではない。
いつの間にか”当たり前”になっただけである。
当たり前になると、人間はそれを「ゼロ」として計算し、足りないものだけをマイナスとして数える。
相手が100%で返してくれるのか、50%なのか、30%なのか。もちろん気になる時もある。
でも、それを条件にはしない。
だから時々「この人がいてくれること自体を、自分は何点で計算しているんだろう?」と考えてみてもいいのかもしれない。
0点か、マイナスか、プラスか。
ペット理論では、もちろんプラスである。
『愛されたい』と思えば、主導権は相手にある。
優しくしてくれれば幸せ、冷たければ不幸。
連絡が来れば安心し、来なければ不安になる。
相手の行動ひとつで、自分の感情が上がったり下がったりする。
でも、相手の気持ちはコントロールできない。
完全にできているとしたら、それは『洗脳』に近いだろう。
それくらい無理なことなのである。
以前に『不足で動けば疲弊する。承認で動けば迷走する。信念で動いてこそ安定する。』という持論を紹介した。
「もっとこうしてほしいのに全然足りない」
という不足を起点に相手を見れば、いつまで経っても満たされない。
「もっと愛してほしい。もっと評価してほしい。」
という承認を起点にすれば、相手の反応によって自分の感情が振り回される。
だったら「自分はどうしたいのか?」を考えた方がいい。
相手が自分をどう思うかは、こちらの範疇ではない。
でも、自分が相手をどう愛するかは、自分で決められる。
「誰かがこうしてくれたら」ではなく「自分はどうする?」である。
ペット理論も、結局はこの考え方につながっている。
ペットにご飯をあげる時「今日ご飯あげたんだから、明日はお前がご飯を用意しろ」とは思わない。
可愛いからあげる。
元気でいてほしいからあげる。
ムシャムシャ食べている姿を見ているだけで癒される。
見返りがなくても成立していて、むしろ愛情を注ぐこと自体が喜びになっている。
人間同士にも、そんな関係があっていいんじゃないかと思う。
ただし、何をされても我慢しろという話ではない。
暴言も、裏切りも、自分だけが犠牲になることも、我慢する必要はない。嫌なことは嫌だと伝えればいい。
ただ、伝えたからといって、相手が100%理解して思い通りに変わってくれるとは限らない。
そこに期待しすぎないということだ。
「見返りを求めないこと」と「自分を粗末に扱わせること」は別である。
ペット理論は、相手に服従する話でも、支配する話でもない。
『愛情そのものを取引にしない』ただ、それだけである。
らんまるもミミも、ご飯を作ってくれなかった。
掃除もしてくれなかった。
仕事の悩みを聞いてくれることもなかった。
雨が降ると獣臭がして、撫でた手が臭くなった。
せっかくあげたご飯を毛繕いでゲロで吐き戻された。
シャンプーをしようとすれば風呂場で暴れまくる。
老衰で歩けなくなったら、オムツを替える。
トカゲやネズミやスズメを捕まえると、ベランダに並べる。
何の役にも立たないと言えば、何の役にも立たない(笑)
それでも可愛かった。一緒にいるだけでよかった。
人間同士で、ここまで完全な無償の愛を貫くのは難しいと思う。
誰しも、聖人君子ではない。
でも、「何をしてくれる?」ばかり考えるより、「いてくれてありがとう」と考える方が、きっと居心地はいい。
それが、自分が勝手に名付けた『ペット理論』である。